昭和45年4月23日  月次祭



 神様にお願いをするという信心から、えー、願わずにはおられないという信心。今日はそういうテーマでひとつ聞いて頂きたい、ね。大変、意味が違いますよ。神様にお願いをするという信心。皆さんね、願わずにはおられないという信心。先程、前講を北野の深町さんがおかげを受けておりました。あちらは、昔の、おー、いわゆる椛目時代の早々の頃の、おー、少年少女会に熱心に出てきておりました当時の子供でした。それが、あー、いつの頃からか、ぱったり、いー、信心をやめてしまいまして、それこそ、おー、そうですね、10何年ぶりでしょうか、えー、椛目におかげを頂きましてから、もう奥さんをもらって、子供ができるという年でございました。
 子供の時の、おー、信心、この時分にも子供ながらにも感じておった合楽の、いや、当時の椛目の、おー、先生というものがここにそこに残っておった。そしてね、このひとつ難儀な事柄をです、ね、お救い頂かなければならんという、まあ一生懸命の思いで、読み上げた。えー、奥さんの、いわゆる出産のことからでございましたが、医者は、あー、到底、もう、おー、子供は仕方がないから、ね、母体のためにも子供をとらなければならないと、お願いをして頂いて、子供は、まあそのまま頂くようにということで、私、その時分のことを詳しくは忘れましたけれども、今日その時のことを話しておりましたから、あー、ほんにそんなことから、えー、深町さんの信心は、また現在のような信心になっていかれておるんだなあと改めて思ったわけでございました。
 まあ、あー、このままでいくと、それこそもう、親も子も、おー、だめになるような結果になってはならんという、まあ心配があったわけでございますが、ですからやはり、願いも一生懸命、ね。いよいよ、うー、まあ大変な苦しみが始まって、ね、まあ、あー、のるかそるかというようなその日一日が山という時でした。お願いに見えますときに、私は、あー、私はこちらの方へ何人か、御造営の、おー、もうこちらでありかかっておった頃だったと思いますから、用意で行かなければならん。
 それで、まあ自分としてはお願いをしてそのまま病院に行くということでございましたけれども、深町さんあんたが行ったからっちゅうてから子供が生まれるわけじゃなかっちゃけん、私はちょうど今日は浮羽の方へ行かなならんから、確か吉井辺りまで、あの、確かにお庭を見に行くか、植木を見にか行くことだったんでしょうけれども、私はお願いをした。後で(?)さんに言われることですのは、ああいう人には言わんとね、もう親先生ばっかりは、どうしたこと言わっしゃるじゃろうかと思うたばってん、まあ言わっしゃるけん仕様がないからその、私はこちらへ乗せて行って、それから、あー、そしてから私はね、それからまた私は用があって出かけましたんです、他の車で迎えにまいりましてから。まちか宅祭か何かだったんだないでしょうか。それで私深町さんに言うていったことはです、もう行かんでからここで御祈念ば一生懸命しときなさいと言うて私は発ちました。
 けれどもやっぱり気が気でないもんですから参られましたわけですね、そして本当に医者がたまがるように、まあ奇跡的なおかげを受けたんです、ね。そのお礼に出てまいりました時にです、深町さんが言うたことを私は覚えております、ね。今度の家内の難儀なことでです、私はね、おかげを頂く道を体得しましたって、おかげを頂くこつをこんだけ覚えました、今度のことでは覚えたとこう言うんです、ね。一心に、毎日毎日お日参りをして、家内のことでお願いをする。いよいよという時にはです、さあそういうことはほっておいてでもです、神様に一心に御用のことに打ち込んでおりゃいい、神様に自分の心を向けときゃあいい。その問題に自分が取り組まなくても信心の方に取り組んどきゃいいんだと、いうようなことを、まあこつあいと、おかげを頂く道だと、まあ体得したわけでございましょうね、確かにまさしくその通りです、ね。おかげを受ける時はそんなもんです、ね。
 おかげをおかげと言うてもうおかげで心の中が、その、いっぱいになっておる時にはなかなかおかげを受けられるもんじゃありません。けれどもそのおかげをですね、例えば、あー、棚の上に上げとくような気持ちで自分は神様に一生懸命、御用にでも打ち込んでおるというようなその間に神様の、おー、まあ不思議なる働きとでも申しましょうか、頂けるもんです。なるほどおかげを頂く道であり、おかげを頂くこつあいを覚えたとこう言う。
 そこで私がその時申しましたことが、今日深町さんのお話の中に出ておりました、ね。おかげの道は分かったからこれから深町さん、ひとつ信心の道を本気で頂かにゃいかんよということでございました。皆さんどうでございましょうかね、おかげを頂くこつあいをひとつまず覚えなきゃならん。なるほどこの神様は一心にすがる、それこそ一心不乱におすがりをするお願いをするお参りをするお取次を頂く、おかげが頂けれるという、そこからです、おかげというのはこういう心境、こういう信心によって生まれるんだなという体験をまず頂かなければならん、ね。
 だからそういう信心がです、もし一生続けられるとするならばです、それはもう本当に神様に対しても相すまんことであり、また自分としても神様から信心もでけんのに、ならおかげを頂くのでございますから神様に借金を重ねるような結果になるのですから、ね、信心が分かるということからね、ひとつおかげを受けていかなければならない。いわゆるこれからはひとつ、深町さんおかげの道から信心の道への転向を計らなければならん。
 そういうところからです、まあ青年会に入られる、青年会でもまあ隆々たる、の、まあ青年会の中では発表力も持っておられるし、また、あー、実行力を持っておられますし、なかなかその、それこそお魚屋さんですから何とうなしに( ? )ごたっとが並ぶですもんね(笑)。まあ、ああいうところが神様の機感にかなうじゃないかと、こうと決めたらこうやりぬくといったような。
 最近は、まあお日参りを続けております。まあお商売柄なかなかいつもというわけにはいかんから、そのう、一日の内の(はざ?)を見つけといて、お参りをしてくるというような生き方です。それけん、あなたもう、はざを見つけてからじゃけんもう、その、生臭かきもんば着とんなるでしょうがね、それでもうお初穂でなんでん生臭かぷんぷん匂いのしよる。ほんなこって、もう深町さんこういうことですね、もう生臭か匂いがぷんぷんするです。けれども有難いなあ、もう本当に魚屋が踊っとるごたる感じですよ、本当。信心で、ね。
 これならやっぱり、これびちびちした魚を安う売るなら、やっぱり商売が繁盛するはずだと、この勢いで商売をするのですからね。ところが最近は自分にはどうにもこれがあっちゃあおかげにならんというような、今まではそれが当たり前のごと思っておったことにね、これがあっちゃあおかげにならんといったようなことを自分で追求してきたんです、分かってきたんです。そのことをつまびらかにこうお取次を頂いて、今まではあげなことを恥ずかしゅうして言われもしなかったようなことでもね、お取次を頂いて、言わばできるできんは別として、それに取り組んで一生懸命に修行しておる。これが私は信心の道を体得していくことそのものの姿だと私は思うです、ね。
 信心さして頂くことによってです、はあこれ、これがあっちゃ、これ、いくら俺が信心したっちゃ神様が喜んで下さらんということが分かったからそれを取り除こう、そこを改めようと、本気でお取次を頂いてお願いをする信心になってきた。なるほど信心の道を、言わば分からして頂こうとする意欲が見えてきた、ね。
 皆さん、だんだん、信心をさして頂いて分からして頂かれるということは、どういうことか、ね。今朝の御理解の中にもございましたね、この、おー、佐是の久保山さん、ね。お上さんがここに見えられてから、言わばお参りをさして頂いて合楽会に語って、まあ時々お参りをする、まあ合楽会には必ず出てみえるけれども、はあ、この人大体話が分かりござるとじゃろうかと、全然発表もなさらんし、ただ黙って聞いておったっちゃ、眠ごたるような顔してから聞きござる。(笑)。
 しかし、人間のみた、見ただけでは分からんと私は思うた、ね。それがどういうところから一心発起されたか分からんけれども、今月の一日から朝参りを始められた。もう寝ても覚めても金光様、親先生。もう毎日毎日、朝の御祈念に参って来てお届けをされることはです、もう一日の体験で、一日の生き生きとした信心の喜びである。もう先生、このお手洗いの所までまいりますとですね、涙がこぼれるっち、感動してきてから、ね。
 畑で仕事をさして頂きよっても、金光様、親先生って言うと、もう本当に先生が嘘っち思いなさるかもしれませんけれども、生き生きとありありとですね、親先生のお姿を拝まして頂くことができる。もう有難うして有難うして、ね、だから一番、その、まあびっくりしましたのが娘達です、自分の、ね。もうものも言わん、くうっとしたごたる顔をしとるおっ母さんがこの頃、にこにことしておる、生き生きとしておる。それで金光様の有難いことをはざを捕まえては娘達に話すから、まあいろんな子供達の様々な難儀ということを、ならこのことばお願いしてくれんの、あのこともお願いをしてくれというて、頼まれた。
 私もいつかはお母さんと連れのうてお参りがさして頂けるというように、ところまでお母さんの信心に帰依しだした、ね。昨日、一昨日だったでしょう、勤めに出ておられる娘さんから電話がかかってきて、もうお母さん、今日はもう眠うして眠うして、ね、もう眠か眠かっちゅってから電話かかってきたげな、今日は。それけんその、お母さんが言いなさった、家には寝袋はなかばのうっち仰った(笑)。眠かようごたるなら寝なっともっとかなきゃ世話なかたいっていう、言うて電話を切ったっち。
 そしたら帰って来て娘が言うごつ、もうお母さん、いつの間にあげなシャレを、お母さんのシャレを初めて聞いたと言うてある。私も言おうと思うて来たけどばってん、あなた、いわゆる娘が電話のことでもう今日は眠か眠かちゅったけんで、家には寝袋はなかばのっち(笑)。それで目が覚めてね、おかげ頂いたと、まあおかげ頂いたとは言わんけれども、お母さんのそのシャレを聞いて目が覚めたとこう言われたという。
 先生、そのように私の心は生き生きとしてです、ね、もう生き生きとして楽しい一日を毎日過ごさせて頂いておりますち。私はね、信心、まあいわゆる信心を分からせて頂く、別にどうと難儀なことがどうというわけじゃないけれども、いよいよ信心を分からせて頂こうとする朝参りが始まったところからです、ね、心の中に生き生きとした躍動がです、始まってきた。今までかつて味おうたことのない味わいなんです。これならば暑かっても寒かってもどのようなことが起こっても、やはり有難く、いや、ここんところをやりぬかせて頂けるだろうというようになる。これはね、いわゆるおかげを頂くこつあいから、そこを通り抜けてね、合楽に私共が参ってからもう3年ですか、その間に金光様のだんだん有難いことが分かって、そして非常におかげを受けられたんです、いろいろなことで。
 それからやはり心の中に、これは本気でひとつ信心を分からして頂こうという意欲ができてこられたんですね。それから今月一日から、お月参り、あー、朝参りをさして頂くと言うておかげを頂かれるようになったらです、もう子供達が気が付くほどに、ね、生き生きとして見えられたという。しかも喜びでいっぱい。金光様、親先生と言やあ、もう本当に涙がこぼれるほどしの感動を感じれるくらいに、それけん自分でもほんなこっちゃあるじゃろうかと思うことがある。親先生しらごつと思われなさるかもしれませんばってん、こうこうですといったような、お願い、あのう、お届けを毎朝されます、ね。
 信心を分からしてもらおう、信心を頂こう、こういうところからどういうような願いの信心ができてくるかとことなんです、ね。お願いのために一心にお参りしておった信心から、願わなければおられないほどしの信心が育ってきたわけです。願わなければおられないということ、ね。先日もあなた、えー、あの、お風呂を沸かして、ところが気が付かせて頂いたことが空風呂を炊きござった。それでもうお湯を入れた途端に、その釜が割れたわけですね。
 前も一遍そげなことがあってから、もうおやじから、おやじからちお父さんから(笑)、まあそげん怒られなさったそうですから、もうそれこそもうびっくりしてですね、また怒られなんと思うちから、ほれでもう一回金光大神様でですね、またお湯ば入れたら、絶対それからもう割れんごつなった、ね。もうこの神様はもう本当にもうどげなことでん聞いて下さる神様ですと言うて、ね、そういうようにね、もうこっちが一心になってすがればどういうおかげでも受けられるといったようなものをひとつの、うー、いわゆる願いの信心からです、そして、本気で朝参りをさしてもろうて信心を分からして頂こうということになってきたらです、今度はもう願わずにはおられないという信心。
 困った時だけ金光様と言うとを信心じゃなくてです、もう全てのことが願わずにはおられないという信心になってくる。その願わずにはおられないという信心と、おー、願う信心とはもう大変な違いなんですよ。願う、はあ、んならもうそれは、もう人間の力、知恵でどうにもできんきん、神様にお願いしてこんのということなんです。これがお願いの信心、ね。他のことは何でんかんでん自分でしよる。ご飯でん何でん自分でしよる、ね。畑に行って、えー、その、畑を野菜を作るとも自分が作りよる、植えるとも自分が植えよる。だからそれ採ってきた金は自分が金。
 といったようなことなんです、そして、まあ、そのう、畑に虫ができたということになってきたならお願いをするといったような信心なんです。それがお願いの信心。ところがね、願わずにはおられないという信心はですね、もうご飯を炊かせて頂くでも、風呂の水を入れさせて頂くでも、もうちょっとそこまでやらせて頂くでも願わずにはおられないという。
 それはどういうところからそのようなことになってくるのでしょうか、願わずにはおられないという信心、ね、それは先程、深町さんの例をもって申しましたように、信心の道をこれからは頂こうということになってきたら、こういう心では信心者としての値打ちはないと気がつくようになってきたんです。今まではこんくらいなことは人間できるのは当たり前と思うておったことがです、信心しよる者と信心しない者の、言わば比較をさしてもらう時です、信心しよってこういうことでは相すまんということになってきたから、恥ずかしいことだけれども、お取次を頂き、お願いをすることになってきた、ね。
 そしてです、そこでまたいよいよ分からしてもらうことはです、とてもとても自分の知恵やら力やらで、なるほど御理解に教えて下さるように「障子一重がままならぬ人の身ぞ」と、をいうことがです、分かってきた、ね。もう自分でどうするとかこうするとかということは絶対、実はできないんだと。神様のお許しを頂かなければできることじゃないんだと、ね。
 その辺からです、もう願わずにはおられないという信心が生まれてくるんですよ、ね。いわゆる自分の無力さ加減というか、いわゆるくずの子の自覚というか、ね。障子一重がままならんと仰るが、なるほど障子一重もこのことが人間で、すらが人間ではどうにもできないのであるから、ね、神様のおかげを頂かなければできることではない、お取次を頂いて、お取次のお徳におすがりするより他にはないということになってくる、ね。
 そのところから、言わば願う信心こそがですね、願わなければおられないという信心。私はね、これをどうでもすがらせて下さいと思うようになったんです。願わずにはおられないというところまで、これはだから信心がね、信心をいよいよ意欲しなければできることじゃない、ね。願わずにはおられんのですよ、もういつも一切合切、だからいつも心の中には生神金光大神様ということになってくる、ね。
 そして、願わずにはおられないというところから願う信心が生まれてきてです、願いながら自分の心を見てみる時です、これはこういう心ではいくら願うたっちゃ同じこつじゃろうというような心を自分では分かってくるようになるんです、ね。そこから改まりの信心が、私は生まれてくると思う、ね。
 自分がそこに本当の、そこに自覚に立たなければならん、ね。「生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり」という、いわゆる天地書附がですね、本当に生き生きとしてくるわけなんです、ね。まず私の心の上に、和らぎ歓ぶ心を与えて下されという信心。その和らぎ歓ぶ心を私の心に頂かせて頂くためにはです、どげん和らぎ歓ぶ心になろうと思うてもなれない、それはこういうものが邪魔をしているんだというこういうものが分かってくる、そうでしょう。
 和賀心になりたいとこう思うんだ、ね、一心に願うんだ、ね。けれども和賀心になれない、そして分からして頂くことはこういう、邪魔になる、いわゆる和賀心とは反対の心がです、自分の心の中にあっておったんでは和賀心を、言わばそれが吸収してしまう、ね。その吸収してしまうそういうものを改まらなければならんというふうに気が付いてくるという、その辺からね、私は願いの信心から願わずにはおられないという信心が生まれてくると、ね。
 その願いの中には、ね、それはもう様々な願いがありましょう、ね、まあそれこそ一時が万事の願いですけれども、自分の心の上に願わなければならない、心の上におかげを受けらければならない願い、ね。お互いの信心がね、どういうことに育っていきよるだろう、10年経っておるけれども、もう20年も参りよるけれども、ただ、ね、お願いするばっかりの信心、そのぶん、そして帰るともうわがよかごとしよる。その全てのことが願わずにはおられんと気が付くところまでね、ひとつ信心をしなければ本当にお願い信心ではね、おかげを頂いても、お願いやめたらもうおかげが受けられないということになってくると。
 皆さんが御祈念の時に、ね、奉唱されます、拝詞、ね、世界中の氏子が助かるように、ね、世界中が平和になりますように、そういう願いというものはです、ね、信心をさせて頂いておらなければできることではなし、また信心を頂いておらなければ、ただ世界が平和になるようになるようにと、ただ祈る、思うというようなことではおかげになるはずはない、ね。世界中が本当に平和になる、世界中が本当に、いー、平穏な日々が送られるような、ね、そこに住まわせて頂く、人間氏子が皆、幸せ、幸福になっていくような願いというものを立てさせて頂いて、皆さんも願っておられるけれども、その願いというものをです、私はひとつ検討してみなきゃいけん、ね。
 その願いの本質といったようなことを言われます、ね。今日、私は申します、願う信心から願わずにはおられないという信心こそがです、ね、願いの本質なのです。天地の親神様が私共に願えと仰る、頼めと仰る。それはね、そういう内容をもった頼めであり願いなのです、それが願いの本質だ。ただ、自分の我情我欲を満たして下さることを願えと言って仰るのじゃないと思う、ね。
 そういうところに至らなければいかに世界中のことを祈ったって願ったってだめだということになりますね。私共が、おかげを頂きまして、えー、本当に、私が確か、ね、してこの大祭に、いー、開口一番、ね、これほど沢山な人がお参りをした、これだけにぎにぎしいお供えができた、ね。そういうことよりも、それをいかんと言うのじゃないですよ、そういうことよりももっと神様が喜んで下さるのが、私自身が助かることだということを申しましたね。
 ですから皆さん自身が助かられることがです、ね、天地の親神様のおかげを頂いて、金光大神のお取次ぎを頂いて、このように生き生きとして私が助かってまいりました、その助かったお礼がこのお祭りでございますということになる時に、言わばご大祭の意義があるという意味のことを申しました。あのことが分かったと、私は有難いと思うですね、ね。
 ちょうど、娘達がこちらに、いー、ご大祭を頂く、まあ歩きに参りまして、ご大祭を中心にして、まあ明日帰るらしいんですけれども、18日の日に着きましたから、18日のお月次祭を頂いた。19日の前夜祭を頂いた、ね、そして20日のご大祭を頂いて、ほら忙しいこと。で、昨日、(やまなみはいゆ?)に若先生が、あー、一緒に、一緒に行きました、ね。そしてまた今晩のお月次祭を頂いた、おる間にね、4回、4,5日おる間に4回のお祭りを拝まして頂いた、ね、そして皆さんどうでしょうか、その引き続きのような、言わば連続(こうぎょう?)のようなお祭りを、まあし続けた、さして頂いたですけどもですね、もう何か20日のご大祭は、もうとうの昔にあったような気がするんです。
 もうやはり、今日のこの月次祭をですね、この前あげなお祭り仕えとってまた仕えなんならんといったようなものがさらさらないんです、ね。そこにね、私がおかげを頂くところがあり、合楽の方たちがおかげを受けられることがある、ね。もうこの前大祭にあげんうんとお供えしたっじゃけんで、もう今度はよかろうっちゅうようなことがない。やっぱりお月次祭といやあ、いつものように、お供えのお三宝の決まっておることとお三宝の決まった通りのことをなさる、ね。
 私はね、信心というのはそれだと思うんです。そういう例えば信心がね、私共の、まあしん、えー、信心の上ではそのようなふうに、だんだんお育てを頂いて分からせて頂くと同時に、ね。今日は皆さんに願う信心から願わずにはおられないという信心の、その過程のところをね、聞いて頂いて、皆さんがそれが5年かかる人から10年かかる人もありますよ。いや、20年かかってもそこはできない人もありますよ、ね。
 けれどもね、そういう、けれどもやはり目指すところはそこへ目指さして頂いて自分の信心を反省させて頂いて、果たして自分は願わずにはおれんという信心になっておるであろうかと、ね。もしなっていないと言うならば信心がまだ分かっていない証拠であり、自分自身が分かっていない証拠であるとひとつ悟らにゃいかんです、ね。
 そうしてです、願わずにはおられないという心をもってです、世界の平和を願わしてもらい、世界人類の助かりを願わしてもらい、ね、いわゆる和賀心時代への突入をですね、そういう心をもって突入しなければ、ただ和賀心、和賀心と言うておっただけではいけないということ。だから、隣近所のことでもね、願わずにはおられないという信心。人のことを願わなければ自分のことはおかげ頂かれんげなけん、誰がこつも願いよるといったような意味のもんじゃいかんちゅうこと、ね。
 願わずにはおられない、それはあのことこのことだけではない、もう一日中のことがです、願わずにはおられない。先程の御祈念に私が申しましたようにです、ね、一日のことをじっとこう思うてみて、夜の御祈念なると御神前に出らせて頂きますと、あれもおかげであったこれもおかげであった、あそこもお粗末であったここも御無礼なことであったと、まあ気付かせて頂いて、ね、お詫びをさせて頂くところはお詫びをさしてもらい、お礼を申さして頂、お礼を申さして頂いて、それこそ深々としたお礼の御祈念をさして頂いてです、さあこれからは休ませて頂くんだけれども、休ませて頂いておるその間だってです、やっぱり願わずにはおられない。どうぞまた、火難盗難水難、ね、様々な難という難の中からです、今晩一夜を、信者一同、私を始め、ね、信者一同が御守護、お守りを受けますようにと言うて願わして頂いておるとですね、もうそれから先はもうあなたの世界というところに到達するのです。そこから生まれてくるのです、安心が、ね。
 願って願ってね、願い、いいですか、願わずにはおられないから願わしてもらうのですけれども、願わしてもらうとです、そこからね、どういうものが生まれてくるかというと、これから先は神様の世界ということ。そういうことは、これから先はもう願うしこ願ったから、神様にお任せして休ませて頂く、よし明日食べる物がなかっても明日のことは明日のことで明日はまた明日の風が吹こうというような心が生まれてくる、それを安らぎと私は言う。
 その安らぎがです、積もり積もって安心になり、それが積もり積もってご神徳ということになってくるんだという意味のお話をさしてもらった、ね。だからその、願わずにはおられないという信心からですね、私はお徳を受けていく道、ね、そこから生まれてくる心を私は和賀心と。いわゆるまたはそれを安心というふうに、今日は皆さんに聞いて頂きました、ね。再検討して、そう見なきゃいけません、ね。
 願いの信心と願わずにはおられないという信心の内容をですね、ひとつ検討してみて下さい。そして自分のは願いの信心だなあということが気付いたらです、本気で自分自身をもっと検討してみなきゃいけない。信心をもっと深く追求していかなければいけない。そして、願わずにはおられないという信心、そこから信心の(みょうきょう?)、ね、何とも言えん、有難うして有難うして、目をつぶればもう、有難涙がこぼれてくるほどしの有難さがね、頂けてくるんだと。
 最近、そういう願いの方たちがだんだん増えてきたことは有難いと思います、ね。先日、うー、あの、願い、えー、おかげの泉の第一集を読んだ人の、から手紙がまいっております中にですね、あれをもう繰り返し繰り返し読ませて頂く度におかげを頂きますとこう言う。それはどういうおかげかは分かりません。けれども繰り返し繰り返し読ませて頂く度に、おかげを受けるというような信心、ね。お話を頂けば頂く度に私の心が開けてくるという私はおかげの頂き方がね、ひとつ身についてこなければならん。どうぞひとつ、願わずにはおられんという信心をね、身に付けたいもんです。どうぞ。
 えー、28日は、あー、親教会の春のご大祭でございますから、どうぞひとつ皆さん、大勢、ご参拝を頂きますように、えー、10時半のお祭りですからいつものように久保山さんのところにお願いをして、あそこで皆さん、できるならね、揃うてまあお参りせんと、何か、あー、いけませんね。だらだらしてお参り、揃うてひとつお参りさして頂こうじゃないかと。28日、10時半からです。どうぞ。
 案内がそこにありますから。



明渡真